写真:長見拓郎、伊藤英里
テキスト:伊藤英里

人は、何を求めて走るのでしょうか。

表彰台の頂点。名誉。富。あるいは、ただ誰にも負けたくないという純粋な勝利への渇望。

それでは、マン島TTレースは?

2025年のマン島TTレースに参戦したただひとりの日本人ライダー、山中正之はこう言います。

「人間としてもライダーとしても成長できるのは、ボクにとってマン島TTレースしかない」。

7回目のマン島TTレース参戦

2017年から参戦する山中正之にとって、マン島TTレース参戦は今年で7回目です。エントリーするのはスーパーツインTTで、カワサキのER-6fを走らせます。マン島TTレースのレジェンドライダー、イアン・ロッカーが代表を務める「Team ILR」からの参戦です。

山中は今年のマン島TTレースに向け、特別な準備を行ってきました。これまではレースウイークの2週間ほど前にマン島にやって来て、1週間から10日ほど、レンタカーでコースを走り、レースウイークに臨んでいました。マン島TTレースのマウンテンコースはまったく普通の公道なので、普段はクルマで走ることができるのです。コースは1周が60kmもあり、コーナーの数は200を超えます。コースの理解は、非常に重要です。

ただ、これまでのやり方ではバイクに乗らない時間が長いと考えた山中は、今年はレースウイークのさらにひと月ほど前にマン島にやって来て、1週間ほど滞在し、コースの習熟に努めました。1月にマン島を台風が襲った影響で、目標物にしていた木が飛ばされていたりもしたそうです。コースの現状を見た経験を持ち帰り、日本でのトレーニングに生かすことができたのでした。

こうした準備をして迎えた今年のマン島TTレースでしたが、予選1ではマシントラブルが発生しました。ミッションのトラブルだったため、乗せ換えることになったのです。これによってイメージしていたギアから変わってしまい、レースウイークで新しいミッションでの走行に慣れなければなりませんでした。

また、マシントラブルと天候不順による予選中止が重なり、スーパーツインTTレース1を迎えたとき、予定の半分ほどの6周しかできていませんでした。十分に周回数を走れていない状況でしたが、バイクに付けたビデオで撮影した映像で、イメージトレーニングに励んだのだそうです。

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マン島TTレースは公道を閉鎖した全長60kmのコースで行われる。コースの習熟が重要な要素のひとつ

山中にとってマン島TTレースに参戦する意味とは

予選2を終えた夕方、山中に「マン島TTレース参戦にあたって、いちばんの目標は何ですか?」と尋ねました。山中は、「今までの自分を超えることです」と答えました。ゆっくりと紡がれる言葉に一切の淀みはなく、力強い意志がこもっていました。

「今までの自分を超えるパフォーマンスを発揮しよう、といつも考えています。タイムを縮めるとかこの順位を目指すとか、そういう数字にこだわるのではなく、ボクは、自分のいちばんいい状態でレースに臨むことが目標なんです」

「順位って難しい。タイムを追っていくと日本のサーキットのような走りになって、ブレーキングを詰めたりしがちなのですが、マン島TTレースの場合は1周60kmあるので、トータルで速く走ったほうがタイムが短縮できます。ひとつのコーナーで頑張っても、次のコーナーで失敗すれば途端にタイムが落ちてしまうんです。それはマン島TTレースに参戦して3、4年目くらいに気付いたことで、ずっと意識しているんですけどね……。弱いもので、つい『もっと突っ込めるな』と攻めてしまうんです(苦笑)」

「そういう心の葛藤がある。弱い自分がいます。そういう自分も、変えていかないといけない。強くならないといけないですね。だから、今の自分よりも、成長した自分を目標にしているんです」

山中は、6月3日のスーパーツインTTレース1を31位(2周/タイム41分20秒867/平均時速 約176.22km/h)、レース2を25位(3周/タイム1時間2分24秒672/平均時速 約175.12km/h)で、それぞれ完走を果たしています。また、レース1では自己ベストの平均時速を更新しました。

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自分の目標を貫く山中。スーパーツインTTレース1、2ともに完走を果たした>

山中は、レース後にこう言います。

「成長したかどうかは、分からないけど。自分の全力を尽くせたから、多少は成長していると思いたいですね」

マン島TTレースは、現在のMotoGPやスーパーバイク世界選手権(SBK)のようなレースとは異なる種類のレースです。例えば、完走したすべてのライダーが、舞台上で表彰を受ける「プライズ・プレゼンテーション」。レースを完走した山中もまた、ステージ上でメダルを受け取りました。その反面、完走しなかったライダーはリザルトに残りません。マン島TTレースにおける、完走することの価値が分かります。

レース2を完走で終えたとき、山中の胸中を駆け巡ったのは、「安堵感」だったそうです。

「あとから考えると、手伝ってくれた人たち、みんなに喜んでもらえて『よかった……』と。ただ、ゴールラインを通過したときは、ほっとします。普通のレースとは違うかもしれないですね」

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レース1の「プライズ・プレゼンテーション」はレースウイーク中の6月4日に行われた。山中もステージでメダルを授与された
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サポーターそれぞれの「目標」を書いてもらい、それをマン島にともなった。マン島でのエネルギーを込めて、帰国したときにサポーターにその用紙を返すのだという

では、山中にとってマン島TTレースに参戦する意味とは、何でしょうか?

「オートバイのレースを通して、成長できればと思っています。レースをあきらめようと思ったことは、何回もあります。でも、マン島TTレースに出るなら、あらゆる状況に本気で取り組まなければなりません。本当に、このレースはいろいろなことがたくさん起こるんです。人間としてもライダーとしても成長するし、成長できるのではないか、と思います」

「その成長をいちばん感じられるのが、マン島TTレースしかないかな、とボクは思っています。ボクは日本のレースにも参戦してきましたが、自分が望む経験、成長できる経験ができるのはマン島TTレースしかない。そう思うんです」

「例えばの話ですけど、崖の上に立って、何かを選ばなければならないことはそうありませんよね。そういうときに、どういう自分を見るのか……。もちろん、どんなことをしていても人間は成長するとは思いますけど、ボクの場合はそれがマン島TTレースなんです。ここが唯一の場所なのかな、と思いました」

山中のチャレンジには、終わりがありません。

そう言うと、山中は「そうなんですよ」と笑いました。(本当に、仕方ないよねえ)という風に。けれど、そんなチャレンジができることを喜んでいるように。

「だから、優勝したいとか、そういう目標にはならないんですよね。人生を懸けたチャレンジなんだと思います。どういう形で終わりになるのか分かりません。でも、続けていくことで成長するなら続けていく価値があると思っています。続けていかなければいけない。続けていきたい。そう思うんです」

ゆっくりと、何度も言葉を選びながら、山中は誠実に言葉を紡ぎます。内奥にあるのは、強い意志です。マン島TTレースを走る意味は、山中正之の人生とともにあります。